
こんにちは、ひでおわーるどです。(X:hdowrld)
今回は『静かな働き方 「ほどよい」仕事でじぶん時間を取り戻す』(著者:シモーヌ・ストルゾフ、翻訳:大熊希美)を読んだ感想というかメモです。
約1か月前に読了して、そこからドタバタ時間が経過してアウトプットできておらずでしたので、あまり良くないですが、ひとまずもういま勢いでアウトプットします。
『静かな働き方 「ほどよい」仕事でじぶん時間を取り戻す』感想
『静かな働き方』を読んだ感想としては、上記のXポストのとおりです。超短い。
本書は「ノウハウ本ではない」です。
どちらかというと「働く、ということに対する考え方・捉え方を学ぶ書籍」という感じです。
本書では、いろいろな登場人物が現れます。
それを客観的に観察できて、生き方や思考を見ることができます。
「ぼくだったら、どうする?」
「私だったら、こう思うけど...」
みたいな感じで、客観視しながらも、「自分事化」して、学びを深めることができます。
特に、このあとの「引用」を読んでもらうと、
「うわああ、気持ちわかるううううう!!!転職150社応募したり、内定いくつももらえたりしているから、この主人公の気持ちわかるううう」
となることでしょう。
しかも、ただエピソードを書いているだけではなく、「心や思考の変化のビフォーアフター」が記載されているので、なんというか「じゃあ自分もこういうマインドセットで挑めばいいんだな」と思うことができます。
ということで、感想は以上。
あとは引用文で失礼します。
『静かな働き方 「ほどよい」仕事でじぶん時間を取り戻す』引用
僕は27歳の時に、仕事を選択するリスクを身をもって学んだ。
当時の僕は重要な決断を迫られていた。
2社から内定をもらい、どちらかを選ばなければならなかったのだ。一つ目は、シャレたオンラインマガジンでのスタッフライターの仕事だ。
それまでの仕事はどれも心からやりたいことではなかった。
広告業界で数年、テック業界で数年を過ごしたが、その間ずっと文章を書く仕事がしたいと思っていた。平日の就業後や週末に、フリーランスのジャーナリストとしての仕事を少しばかり受け負っていたが、「ライターです」と言う度に、微妙に嘘をついている気分だった。
スタッフライターの仕事を選べれば、憧れの肩書きをついに手に入れられる。二つ目は、有名なデザイン会社でのデザイナー職だった。
大学院でその会社の創業者の講演を聞いて以来、そこで働きたいと思っていた。
「この人のために働く!」とポケットに忍ばせたノートに綴っていたほどだ。
そしてその数年後、それを実現できる機会がやってきたのである。
給料もライターの仕事の1.5倍以上だ。どうしようかと数週間悩んだ。
親しい人たちにも意見を求めた。
ヨガの先生やウーバーの運転手にさえどう思うかと尋ねたし、キャリアコーチを探したこともある。
作家マイケル・ポーランの著作の影響を受けて、決断を後押ししてくれることを期待してサイケデリックな体験を得られるものを試してみたりもした。
それでも答えは出なかった。「こっちにしよう」と思う度に、もう一方の仕事の良いところが頭をよぎる。
人を惑わす悪魔の囁きを考える仕事の方が向いているかもしれない。
心のどこかで、こんな悩みは馬鹿げていると思った。
2つある候補からどちらかを選べるなんて贅沢な悩みだ。
自分がキャリア上の決断をあまりに深刻に捉え、悩んでいることに嫌気がさした。
でも心の別の部分では、キャリアは超重要だとも思っていた。仕事は単なる仕事ではなく、僕のアイデンティティとなるものだ。
「普段は何をしているんですか?」引いては「お前は一体どこの誰なのか」の問いへの答えとなるものだ。
転職先を選ぶことは、どちらかの仕事を選ぶというより、2つのなりたい自分からどちらかを選ぼうとしているような気分だった。何週間も悩んだ末、デザイン会社の仕事を取ることにした。
すんなり決まったわけではない。
一旦断ったものの、翌朝パニックを起こして採用担当者に電話をかけ、心変わりしたと伝えたのだ。しかし新しい仕事を始めて数週間が経った頃、この決断は失敗だと思うようになった。
朝のコーヒーは、自分のアイデンティティに対する不安で味がしなかった。
デザイン業界に浮気した自分を、ジャーナリズム業界がもう一度拾ってくれるのだろうかと、 LinkedIn を見て回ることをやめられなかった。僕は嫌なやつになっていた。
他者に気を配れないダメなやつ。
自分のキャリアの問題ばかり話すダメなパートナーだった。
さらに自分の仕事への満足度ばかり気にするダメな労働者だった。それでもしばらくすると、自分の中で何かが変わり始めた。
悟りが開けたのだと言いたいところだけれど、最大の手助けになったのが時間だ。日々のルーティーンができて、仕事への執着を手放せるようになった。
サッカーをしたり読書をしたり、友人と公園に行ったり、同居人と料理をしたり、新しい生活が定着した。
仕事では「他にやりたいことが無数にある」という考えにとらわれず、自分が楽しめる作業に集中できるようになった。
何よりも自身の選択について、あれこれ思い悩むのをやめることができた。
今の仕事も十分にいい仕事だと思えるようになった。僕はそれまで労働主義の負の側面にとらわれていた。
一つは第一章でディビアシンが学んだように、仕事に全てを捧げると他にやりがいを感じる活動に時間を当てられなくなる。
仕事が常にあるとも限らない。
仕事が全てなのに、その仕事がなくなったら何が残るのか。もっと深刻なリスクがある。
仕事に超越体験を期待するのは、大きな失望を伴うということだ。
仕事のような世俗的なことではなく、宗教を信仰する利点の一つは、信仰対象が人知を超えた存在であることと関係する。「信仰の対象を神や何か神聖なものとするのには妥当性がある。それは、これ以外のものを信仰の対象とした場合、それに飲まれてしまうからだ」と作家デイビット・フォスター・ウォレスは有名なスピーチ「これは水です」の中で語っている。
美貌や金、権力を崇拝した場合、それらをどれだけ手に入れても十分とは思えなくなる、という意味だ。
僕は仕事を崇拝していた。
だからこそ完璧と思える仕事以外のもので妥協する自分が許せなかった。仕事への期待値を下げて初めて、「仕事は自分のすべてではなく、アイデンティティのほんの一部に過ぎない」と思えるようになったのである。